「家出?」
「はいです……私、家でちょっとありまして、父様と言い合いになったんです。それでその……」
「そんなこと言うならもういい! 私、家を出ます! お父さんなんか知らない!」
「え? 新藤さん、どうして分かったんですか?」
「いや、そんなに驚かれても。大体分かるよ」
「そうなんですか……」
「それで? 家はどの辺りなのかな?」
「ごめんなさいです、それは……」
「まあ、言いたくないなら聞かないけど。それで風見さん、これからどうするつもりかな」
「……」
「その様子じゃ、お金もあんまり持ってないよね。それにその格好……かなりいい服みたいだけど、あちこち汚れてる。家出して何日目?」
「……三日目です」
「行く当ては?」
「ないです……」
「だよね……なあ、じいちゃんばあちゃん。この人、しばらくここで面倒みてもいいかな」
「またあんたは、勢いだけで決めちゃって」
「まあでも仕方ないだろ。直希、ここの管理人はお前だ。お前がしたいようにすればいい」
「ありがとう、じいちゃんばあちゃん」
「だから、コンビ名みたいなのはやめとくれって」
「そういう訳だから風見さん、風見さんさえよければ、しばらくここに住みませんか?」
「そんな、これ以上ご迷惑は」
「どっちにしても、行く当てないんでしょ? それにお金も」
「はいです……」
「そうしないと、俺たちも後味悪いよ。このまま帰しちゃったら風見さん、またすぐに行き倒れてしまうよ」
「でもいいんでしょうか、居候させていただいて」
「勿論、働いてもらうよ」
「え?」
「そして働いてもらうからには、お給料もちゃんと出すから。人手も欲しかったところだし」
「働くって、新藤さんのお宅で?」
「うん。ここで」
「ここって一体……」
「ここは簡単に言えば、有料老人ホーム」
「老人ホーム?」
「まあ、そうは言ってもみなさん自立してるし、特に介助も必要ないんだけどね。俺は一応資格持ってるけど、ほとんど使ったこともない。言ってみれば、ここは食事付きの集合住宅。入居してるのは現在6人で、俺が管理人」
「お年寄りの集合住宅……」
「施設に入る必要はなくても、一人でお年寄りが暮らすのは何かと不便。だからそういう人の為に作ったのがここ、あおい荘」
「あおい荘?」
「うん。だからびっくりした。風見さんの名前と同じだから」
「ここの名前があおい荘……」
「あらあらそうなの。あおいちゃんって言うのね」
文江があおいの頭を撫でた。
「これからよろしくね、あおいちゃん」
「あ……は、はいです! よろしくお願いしますです!」
「あらあら、元気なお嬢さんね。私は文江で、こっちの人が栄太郎さん。そしてこの子は私たちの孫」
「不束者ですが、頑張って働きますです」
「ちなみに風見さん、年はいくつかな」
「年ですか?」
「うん。勢いでいいって言ったけど、もし風見さんが未成年なら、色々問題が出てきちゃうから」
「23歳になりますです」
「え? そうなんだ。ひょっとしたら未成年かもって思ったんだけど、俺と4つしか変わらないんだね」
「私、そんなに子供っぽく見えますですか」
「ああ、いや。お腹が空きすぎて倒れてたもんだから……ね」
「……無鉄砲で、ごめんなさいです」
「じゃあ風見さん、部屋に案内するよ。俺の隣の部屋でいいかな」
「はい、ありがとうございますです」
「それと、俺のことは直希でいいから」
「直希さん、ですか?」
「だってここにはじいちゃんばあちゃんも住んでるし、新藤さんじゃややこしいでしょ」
「分かりましたです。私のことも、どうかあおいと呼んでくださいです」
「分かった。じゃあ、あおいちゃん、こっちに」
「はいです、直希さん」
* * *
「ここだよ。はいこれ、鍵」
扉を開けて、あおいに鍵を渡す。
中に入ると半畳ほどの玄関、隣が洗面所とトイレになっていた。 部屋は六畳間。家具がないので、それより広く感じた。「少し手狭かもだけど、いいかな」
「とんでもないです。あのその私、本当にここで住んでいいんですか」
あおいの興奮ぶりに、直希は笑顔でうなずいた。
「ちょうど昨日、部屋に掃除機をかけたところだったんだ。まるであおいちゃんが来るの、分かってたみたいだ。後は……布団は予備があるから、後で持ってきてあげる。それであおいちゃん、荷物はそれだけなんだよね」
そう言って、あおいが背中にしょっている小さなリュックを指差した。
「はいです。勢いで出てきたので、何も持ってきてなくて」
「その、着替えとかは?」
「……ないです。下着しか持ってきてないです」
「そっか、よかった。流石に下着は俺も持ってないから」
「え?」
「いやいや、こっちの話。じゃああおいちゃん、落ち着いたらお風呂に入ろうか。さっぱりした方がいいと思うんだ」
「でも私、着替えが」
「俺のでよかったら用意するよ。それにあおいちゃん、ちょっとだけその……匂いが」
「ええっ! 私、臭いですか!」
「あ、いや、臭いってほどじゃないけど、三日も同じ服を着てたんでしょ。その様子だとお風呂にも入ってないみたいだし……って、匂わないで匂わないで」
直希に言われたあおいが、服に顔を押し付けて匂っていた。
「この暑さだし、しょうがないよ。それに疲れただろ? ゆっくりするといいよ」
「ごめんなさいです、何から何まで」
「いいからいいから。じゃあ俺、お湯張ってくるから。落ち着いたら来てね」
そう言って、直希が部屋から出て行った。
* * *
「はあっ……」
あおいはその場に座り込み、大きく息を吐いた。
「なんだか……急に疲れてきましたです……さっきまで大丈夫だったのに……」
そうつぶやき、畳に寝そべる。
「畳の香りです……ふふっ」
仰向けになり、昔ながらの電灯に目を細めた。
「落ち着きますです……」
終点の駅に着いた直希とつぐみは、駅から出ると近くのコンビニでパンとジュースを買った。 少し歩くと、海が見えてきた。 直希たちは、かなり遠くの街にまで来た気になっていた。しかし実は、直希たちの住む街から二駅ほどの所で、今見えている海も、言ってみれば直希たちがいつも見ている海なのだった。 堤防の石段に腰掛け、一緒にパンを食べて笑い合う。「おいしいね」「私のもおいしいわよ。食べてみる?」「いいの?」「代わりにナオちゃんのも、少し頂戴ね。はい、あーん」「あーん」「どう? おいしいでしょ」「うん、甘くておいしい。じゃあお返し。あーん」「あーん」 * * * 食べ終わった二人は、陽の落ちた海岸で手をつなぎ、静かな海を見つめていた。「つぐみちゃん、これからどうするの」「そうね。まずはお家を見つけるのよ。それから二人で、どこかで働くの」「お家って、どうやって見つけるの?」「分からないけど……でも大丈夫よ。私たちは結婚するんだから、そう言えば、誰かがくれるはずよ」「そうなんだ。つぐみちゃん、やっぱりすごいね」「お仕事だって見つかるから、心配ないわよ。でも朝になってからね。今日はもう遅いから、大人もそろそろ寝る時間だし」「じゃあ、僕らはどこで寝るの?」「それは……あそこでいいんじゃないかしら」 そう言ってつぐみが指を差した場所。それは海の家だった。「でも、誰もいないよ」「あそこは夏にしか開いてないのよ。だから誰もいない。隠れるのにちょうどいいでしょ?」「隠れるって、誰から?」「お父さんたちが探しに来るかもしれないから。私たちの結婚に反対してるんだから、当然でしょ」「そう……だね、そうだよね……あっ」
しばらくして、東海林とつぐみは直希の家へと向かった。「あの……ナオちゃん……」 直希の部屋に、つぐみが恐る恐る入っていく。 部屋では直希が、先ほどのつぐみの様に膝を抱え、顔を埋めていた。 時折小さく肩が動く。どうやら家に帰ってからも、ずっと泣いていたようだった。「ナオちゃん、その……さっきはごめんね」「……」「私ね、ナオちゃんがその……悪口を言ったって思ったの。べっぴんさんってどういうことか、分からなくて……それでね」「……もういい」「え……」「もういい! つぐみちゃんなんか嫌いだ! べっぴんさんって言ったら、つぐみちゃんが喜ぶって母さんが言ってたのに……つぐみちゃんも母さんも嫌いだ!」「ナオちゃん……」「つぐみちゃんのこと、大好きだったのに……喜ぶって思ったのに……」「ごめんなさい。お願い、許して」 つぐみがそう言って、直希を抱きしめた。「ごめんなさいナオちゃん、許してください。お父さんから、べっぴんさんがその……綺麗だって教えてもらって……私、嬉しかった。そしてね、ナオちゃんにひどいことしたって思ったの」「……」「だからお願いします。ナオちゃん、許してください。私とこれからも、仲良くしてください」「……もう、怒ったりしない?」「しません。だってナオちゃん、私のことを綺麗って誉めてくれたんでしょ?」「うん……」「私のこと、かわいいって思って
「べっぴんさん?」「そう、べっぴんさん。かわいい女の子のことを、そう言うのよ」「かわいい女の子……つぐみちゃんみたいな子?」「ふふっ、そうね。つぐみちゃんはかわいいもんね」「うん。つぐみちゃんよりかわいい女の子、いないと思うよ」「あらあら、ふふっ……直希は本当、つぐみちゃんのことが大好きね」「うん、大好き。ねえ母さん、つぐみちゃんにべっぴんさんって言ったら、喜んでくれるかな」「そうね。つぐみちゃんもきっと、喜んでくれると思うよ」「じゃあ今度、つぐみちゃんに言ってあげる」「直希は本当、優しいね」 * * * 次の日。 保育園でつぐみの姿を見つけると、直希は一目散に駆け寄った。「つぐみちゃんつぐみちゃん。あのねあのね」「おはようナオちゃん。どうしたの?」「僕ね、つぐみちゃんに言いたいことがあるんだ」「私に? 何かな何かな。いいこと?」「うん。つぐみちゃんが喜ぶこと」「えー、早く言ってよナオちゃん」「うん。じゃあ言うから、ちゃんと聞いてね」「うん」 直希はつぐみの手を握り、顔をみつめた。「え……ナオちゃん、どうしたの? なんか恥ずかしいよ」「つぐみちゃん」「は……はい……」「つぐみちゃんは……べっぴんさんだね!」 満面の笑みを浮かべ、直希がそう言った。「……」 しかし、べっぴんさんと呼ばれたつぐみは、直希の予想に反し、驚いた表情で固まった。 そしてうなだれるようにうつむくと、小さな肩を震わせた。「馬鹿っ!」 言葉と同時に、直希の頬を張った。
「つ、疲れたわ……」「つぐみさん、大丈夫ですか」「ええ……菜乃花もお疲れ」「いえ、私は別に……でもその、今の山下さん……」「ええ、かなり記憶が混乱してたみたいね」「そんな……山下さんが認知症……」「明日お父さんに伝えておくわ。この前みたいに、一時のことだといいんだけど」「……」「菜乃花?」「あ、いえ……すいません。私、何も出来なくて」「何言ってるの。こんな現場に遭遇したの、初めてでしょ? 誰だって戸惑うわよ」「でもその……直希さん、あんな自然に」「そうね……直希の演技には本当、驚かされるわ」「そう、ですよね……でも直希さん、山下さんの様子にも全然驚いてなかったみたいでしたよね」「そんなことないわよ。直希も心の中じゃ、パニックになってたと思うわ」「そうなんですか?」「だと思うわよ。いつも普通に接していた入居者さんが、急にあんな風になるんだから。でも、今日は菜乃花もいてくれてよかったわ。こんなこと言ったら山下さんに悪いけど、いい経験になったと思う」「あ、はい……でもこんなこと、本当にあるんですね」「現場ではよくあることよ。でもね、菜乃花。どんな時にも言えることなんだけど、とにかく私たちは、冷静に対応しなくちゃいけないの。直希だってきっと、怖かったと思う。辛かったと思う。でもそれを見せずに、これまで培ってきた経験と、山下さんの情報を頭の中に総動員させて、ああして祐太郎さんを演じきったの」「はい……すごいと思いました」「どれだけ入居者さんの情報を持っているか。こういう時
「そう言えばあおい、今頃どうしてるかしら」「明日香さんと宴会中、なんじゃないかな」「温泉旅行、ですもんね」「しかしびっくりしたよな。明日香さん、温泉旅館のタダ券持って、この前のお詫びにどうですかって」「直希と行く気だったけどね」「つぐみはそう言うけど、それはないと思うぞ。だって俺には、ここの仕事があるんだから」「明日香さんだって、そんなことぐらい分かってるわよ。その上で誘ってきたのよ」「スーパーで、タダ券二枚もらったんだよな」「でも、直希さんに断られて」「あんな分かりやすいがっかり顔、中々見れないわよね」「それでみぞれちゃんとしずくちゃんが、あおいさんを誘って」「この前一緒に遊んでから、随分仲良くなったからね」「おかげで今日は、随分静かだったわ」「特に、その……食堂が……」「だね。一番元気に食べる子がいなかったんだから。入居者さんたちも、気のせいかちょっと寂しそうだったし」「気のせいなんかじゃないわよ。生田さんなんて、私に何回も聞いてきたんだから。あおいはいつ帰ってくるんだって」「生田さん……随分と変わりましたよね」「そうね。あおいのおかげかしら、ふふっ」 そう言って三人、顔を見合わせ笑った。 その時だった。「祐太郎さん!」 食堂に響き渡った声。 聞きなれない名前。 三人が声の方を見ると、そこには貴婦人、山下が立っていた。「え……山下さん?」「直希、祐太郎さんって言ったら、まさか」「ああ……亡くなった旦那さんだな」 直希が二人に目配せすると立ち上がり、山下に微笑んだ。「どう……したのかな、恵美子さん」「どうしたじゃありません
8月31日の夜。 直希とつぐみ、そして菜乃花が食堂に集まっていた。 明日から9月。 菜乃花の新学期に向けて、これからの仕事の割り振りを決める為のミーティングだった。「菜乃花ちゃんにとっては、高校生活最後の二学期。体育祭に文化祭と行事もあって、何より卒業後の進路を決める大切な時期だ。 あおい荘で働いてくれて、正直すごく助かってる。特にこの前、俺が倒れた時には本当、迷惑をかけてしまって」「そうね。そのことに関しては本当、菜乃花に感謝し続けて頂戴よ。勿論、私やあおいにもね」「分かってるって。あんまりいじめるなよ」「あ、でもその……直希さん、元気になられて、本当によかったです」「ありがとう。菜乃花ちゃんは優しいね」「あ、いえ……そんなこと……」「優しくなくて悪かったわね」「いやいや、その突っ込みは来ると思ってたけど、そういう意味じゃないから」「分かってるわよ、ふふっ」「菜乃花ちゃんにとってこれからの数年は、人生で一番大切な時期になる。仕事を手伝ってくれるのは本当に嬉しい。でも今はそれ以上に、これから自分がどうしていきたいのかを、しっかり考える時間を持ってほしいんだ」「はい。ありがとうございます」「菜乃花は将来の夢とか、あるのかしら」「夢……ですか」「ええ。大学に進学するのか、働こうと思ってるのか。専門学校という道もあるわね」「私は、その……頭もよくないし、無理して大学に行っても仕方ないかなって思ってます」「そうなの? 今からでも頑張ったら、まだまだ間に合うと思うけど。それに、大学は勉強だけじゃない。友達も出来ると思うし、新しい発見や出会いもあると思うわよ」「でも私、友達を作るのも苦手だし……大学に行っても、その……今より多くの人たち